三十八
自分は此時《このとき》始めて女というものをまだ研究していない事に気が付いた。嫂《あによめ》は何処《どこ》から何《ど》う押しても押し様《よう》のない女であった。此方《こっち》が積極的に進むと丸で暖簾《のれん》の様《よう》に抵抗《たわい》がなかった。仕方なしに此方《こっち》が引き込むと、突然変な所へ強い力を見せた。其《その》力の中《うち》には到底《とて》も寄り付けそうにない恐ろしいものもあった。又は是なら相手に出来るから進もうかと思って、まだ進みかねている中《うち》に、弗《ふっ》と消えて仕舞うのもあった。自分は彼女《かのじょ》と話している間|始終《しじゅう》彼女から飜弄《ほんろう》されつゝある様《よう》な心持《こゝろもち》がした。不思議な事に、其《その》飜弄《ほんろう》される心持《こゝろもち》が、自分に取って不愉快であるべき筈《はず》だのに、却《かえ》って愉快でならなかった。
彼女《かのじょ》は最後に物凄《ものすご》い決心を語った。海嘯《つなみ》に攫《さら》われて行《い》きたいとか、雷火《らいか》に打たれて死にたいとか、何しろ平凡以上に壮烈な最後を望んでいた。自分は平生《へいぜい》から(ことに二人《ふたり》で此《この》和歌山《わかやま》に来てから)体力や筋力に於《お》いて遙《はるか》に優勢な位地《いち》に立ちつゝも、嫂《あによめ》に対しては何処《どこ》となく無気味《ぶきみ》な感じがあった。そうして其《その》無気味《ぶきみ》さが甚《はなは》だ狎《な》れ易《やす》い感じと妙《みょう》に相《あい》伴《ともな》っていた。
自分は詩や小説にそれ程親しみのない嫂《あによめ》のくせに、何か昂奮《こうふん》して海嘯《つなみ》に攫《さら》われて死にたい抔《など》と云うのか、其処《そこ》をもっと突き留めて見たかった。
「姉《ねえ》さんが死ぬなんて事を云い出したのは今夜始めてゞすね」
「えゝ口へ出したのは今夜が始めてかも知れなくってよ。けれども死ぬ事は、死ぬ事|丈《だけ》は何《ど》うしたって心の中《うち》で忘れた日はありゃしないわ。だから嘘だと思うなら、和歌《わか》の浦《うら》迄|伴《つ》れて行って頂戴《ちょうだい》。屹度《きっと》浪の中へ飛込《とびこ》んで死んで見せるから」
薄暗い行燈《あんどん》の下《もと》で、暴風雨《あらし》の音の間に此《この》言葉を聞いた自分は、実際|物凄《ものすご》かった。彼女《かのじょ》は平生《へいぜい》から落付《おちつ》いた女であった。歇私的里《ヒステリ》風《ふう》な所は殆《ほと》んどなかった。けれども寡言《かげん》な彼女《かのじょ》の頬《ほゝ》は常《つね》に蒼かった。そうして何処《どこ》かの調子で眼の中に意味の強い解すべからざる光が出た。
「姉《ねえ》さんは今夜|余程《よっぽど》何《ど》うかしている。何か昂奮《こうふん》している事でもあるんですか」
自分は彼女《かのじょ》の涙を見る事は出来なかった。又|彼女《かのじょ》の泣き声を聞く事も出来なかった。けれども今にも其処《そこ》に至りそうな気がするので、暗い行燈《あんどん》の光を便《たよ》りに、蚊帳《かや》の中を覗《のぞ》いて見た。彼女《かのじょ》は赤い蒲団《ふとん》を二枚重ねて其上《そのうえ》に縁《ふち》を取った白麻《しろあさ》の掛蒲団《かけぶとん》を胸の所迄|行儀《ぎょうぎ》よく掛けていた。自分が暗い灯《ひ》で其《その》姿を覗《のぞ》き込んだ時、彼女《かのじょ》は枕を動《うごか》して自分の方《ほう》を見た。
「あなた昂奮《こうふん》昂奮《こうふん》って、よく仰《おっ》しゃるけれども妾《わたし》ゃ貴方《あなた》よりいくら落付《おちつ》いてるか解りゃしないわ。何時《いつ》でも覚悟が出来てるんですもの」
自分は何《なん》と答うべき言葉も持たなかった。黙って二本目の敷島《しきしま》を暗い灯影《ほかげ》で吸い出した。自分はわが鼻と口から濛々《もう/\》と出る煙ばかりを眺めていた。自分は其間《そのあいだ》に気味のわるい眼を転じて、時々|蚊帳《かや》の中を窺《うかゞ》った。嫂《あによめ》の姿は死んだ様《よう》に静《しずか》であった。或《あるい》は既に寐付《ねつ》いたのではないかとも思われた。すると突然|仰向《あおむ》けになった顔の中から、「二郎さん」と云う声が聞えた。
「何《なん》ですか」と自分は答えた。
「貴方《あなた》其処《そこ》で何をして居らっしゃるの」
「煙草《たばこ》を呑んでるんです。寐《ね》られないから」
「早く御休みなさいよ。寐《ね》られないと毒だから」
「えゝ」
自分は蚊帳《かや》の裾《すそ》を捲《まく》って、自分の床《とこ》の中に這入った。
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